お盆 部屋を大掃除をした話② 難民支援にほんの少し関わろう

前日は、大掃除により発見した、じいちゃんの本棚の話を更新した。

 

今日も掃除。全然家で勉強をしてこなかった自分にとって、最適な学習環境を家の中で整えようとなると、けっこうな時間をかけて整理整頓をしなくてはならない。本に限らず、服から家具からいろんなものの配置をいじった。ぷちリフォームって感じ。休みの時にしかできない。

 

身の回りの手付かずだったものに目を向けていくと、結構な量のごみが出るわけで。いらない本や服、昔からコレクションにしていたバッジやゲームなど、どう処理しようかと悩む。

 

そんなときに見たポストがこれ。

 

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ビンゴ。喜んで寄付しますって感じ。

JAR 難民支援協会が、なんでもお宝エイドって業者を使って引き取ってくれて、お金になった分の10%が、難民支援のために寄付されるのだとか。

 

日本政府の難民認定率と数は世界の先進国の中ではありえんぐらい低いんだよね。世界の難民がめちゃ流出しているなかで、2017年は難民申請者数2万件近くに対して、認定者数は20件。0.2%未満か。OMG!

 

 

【ちょっとカナダの難民支援の話】(留学の振り返りも兼ねて)

トロントにいた時、難民支援のさまざまなイベントや取り組みを調べたり、World Refugee Day(6/20)の行進を見たりして、日本の難民に対する冷たさ、もっといえば違いをなかなか許容できない社会の雰囲気に疑問を持っていた。

 

1970年代頃から、

カナダが取り組み始めた多文化主義政策により、移民・難民に対する支援に力を入れ始め、現在では官民共同で行われている。(ケベック州はちょっと違うんだけど。)

カナダにはSponsorship Agreementというのが官民の間であって、要はこれを持つと、カナダに来た難民だけでなく現地や第3国に逃れた難民の衣食住のためのさまざまなサポートができるようになる。(ビザ取得支援、就労支援、言語学習支援、経済的支援など。)

・カナダ政府のサイト  Sponsorship Agreement Holders — Sponsor a refugee - Canada.ca

・RSTP(Refugee Sponsership Training Program) がSponsorship Agreement Holdersやいろんな支援団体、そして支援される難民のためのプログラムを提供する,、総合的な難民のための団体 Refugee Sponsorship Training Program (RSTP)

・The Canadian Council for Refugees は主に移民・難民の人権や生活を保護する団体。毎年カンファレンスをトロントのYork Universityで開いている。(参加者多数で俺は行けなかった) International Refugee Rights Conference 2018 | Canadian Council for Refugees

 

・World Refugee Day(6/20)トロント市内の様子

この人たちにもらった用紙にRSTPのプログラムのことが詳しく書かれてあって、調べるきっかけになった。

 

2017年のカナダにおける難民認定者数は、 俺調べで13000人・59%(カナダの文

献ではもっと認定数と認定率が高い。)。そのうちの60%ほどがPrivateSponsorによる支援を受けている。

参考:2017年データ

ドイツ 認定数147,000件・全体の25.7%

アメリカ 認定数27,000件・全体の40%

イギリス 認定12,500件・全体の31%

韓国 認定数121件・全体の2%

 

 

【なぜ日本は年間20件で認定率は0.2%未満なのか。】

難民制度に関するデータをいくつか。

99.8%の認定不認定を受けた人のうち、在留資格のない人たちは入国者収容所入国管理センターに送還・拘束される。

日本の難民認定制度の問題点はたくさんある。ちなみに就労を目的として偽装難民として入国しようとする人も申請者の中に30%ほどいるらしい。残りの70%は本当に日本に逃げ込んできた難民申請者だとして、なぜ20名しか認定されないのだろうか。とても疑問。

日本には現在、難民とそれに準ずる在留資格保持者(インドシナ難民、難民認定者、人道配慮による在留許可付与者、第3国定住難民)が7500名いる。

それに対して、申請中で結果待ちの人は3万1204名いる。その人たちの平均待機時間は、2年~3年。

強制送還数はどのくらいなんだろうか。

 

ではなぜ認定されないのか。

 

①日本語の難しさって、書類日本語訳付きで準備したり審査で面接したりするときに必ずある。

②日本社会でやっていけないだろうというレッテルを貼られる。

③難民を治安の悪い土地から来たよそ者として、受け付けない空気が個人的にヤダ。もうちょっとこのあたりの国民性とか日本の排他主義的な国策とか調べたい。

 

とにかく、難民認定手続きだけでなく、衣食住、就労支援、言語サポート、経済的サポートなどの支援が必要なんだ。ただでさえ長い間待たされているのだから。

 

 

今回の大掃除で出てきたものを寄付します。こんなことを考えながら。

 

8月初旬発売のThe Big IssueにJARや難民について特集されていた。もう売ってないかもだけど。


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お盆 部屋を大掃除をした話

留学から帰ってきて、心に決めていたのは、本をたくさん読むこと。

たくさん知りたいことがあるし、自分の言語力を磨くにももってこいだなと思っていた。英語学習だって、シェアできる知識をたくさん持っていて、言語表現に長けた人ほど伸びも早いんだろうと、勉強しながら痛感していた。

 

俺は読書なんてまじめにしたことがないくらい、好きじゃなかった。時間かかるし、テレビや映画のほうが面白いし。その結果が今の俺。説明下手、知識も中途半端、文章理解するのも圧倒的に遅い。おまけに集中力も皆無。

 

まあ自分の話はきりがないので。

今日のこと。

 

まず、大掃除から始めた。絵本から教科書、小説、歴史書、漫画、雑誌。いろいろ持ってたんだなと知る。読んだ記憶は大方ない。

まあまあたくさんの本があって、それぞれに目を通しながら、どうやって整理しようかと考えていた。本の置き場所とか部屋のレイアウトを参考にしようと、ふと2世帯住宅であるうちのじいちゃんの部屋に本棚があるのを思い出したので、入ってみた。

 

まず本の量に驚いた。こんなにいろんな分野の本を、しかも著者ごとにたくさん並べているなんて。

 

4年前に亡くなったじいちゃんは、かつて作詞家であったことを強く思い出した。文学部で児童心理学を専攻し、作詞家として絵本出版や童謡の作詞をたくさん手掛けていた。SAPIXの教材として活用されたり、小学校の歌謡集に作品が載ったりするくらい、じいちゃんの作品は現在も生き続けている。

 

じいちゃん、すげえ。

こんな身近に、本を読んで詩を書く達人がいたなんて、じいちゃんの仕事のこと深く考えたこともなかった。

 

童謡、文庫本、漫画、歴史書、日本史の中でも、鎌倉~室町~戦国時代の武将の本が目につく。近代史もそこそこある。じいちゃん、こういう本読んでいたんだなあ。人の本棚ってその人の頭の中の一部を覗くようでおもしろい。それ以上に、時間をかけて積み重ねたものって美しいし、見ると感動する。一朝一夕で物事をやりがちな自分は、何を積み重ねてきたんだろうか。本棚いいね。

 

あと人ってコレクトするの好きだね。(本に限らず、小物とか服とかお皿とか)

 

図書館や本屋で、本の魅力に魅了され、本を読む人・さらに紹介する人の魅力に魅了される今日この頃。

 

最近はいろんな人の人生や考え方を見て聞いて感じて、自分の仕事の道を描こうとしている日々です。

 

よし掃除終わらせて勉強しよ。

4,5,6月の活動のまとめ in Toronto

学んだことって何?って聞かれたらなんて答えるか。

⇒カナダ・トロントの文化・社会を教育現場から見ることができた。その中で、地理教育ってこんなに面白くて学びがいのある教科なのか!ってなって、その可能性と重要性に気付いた。

 

 

具体的になに学んだ?

①教育現場から見るカナダの国民性、そして文化

実際の学校現場どんなもんなのか。

正直、カナダの教育現場もどこまで多様かつインクルーシブな社会の実現にフォーカスできているのかは、学校による。白人系の小学校と高校を見学したが、特に特別な異文化理解の教育を施しているわけではないし、先生方からも説明は受けなかった。むしろ、親がポリティカルな力を持っていて、口出しされてしまうような大胆な教育はなかなかできないということも伺った。異なるバックグラウンドを持った子供たちが集まる学校とはあまりに違った。

 

ただ、社会の中にすでに様々な文化を持った大人が存在していて、それぞれのコミュニティも出来上がっていて、子供たちにとっては「目の前に異文化がすでにたくさんある」というのがカナダの社会。はっきり言ってしまえば「寛容」というよりは「慣れ」に近い。そんな「目の前に異文化がすでにたくさんある」なかで、カナダ人としてのアイデンティティを見つけ出して確立するのってたぶん難しい。

 

それでいてカナダ人は、自国愛がすごい。

Canada day での、年齢・バックグラウンド関係なく国の誕生日を祝う空気は、本当に印象深いし、国としてまとまりを持つという意味で良いものを見た気がした。

 

 

 

②国際理解教育としての地理教育の可能性

いろんなバックグラウンドを持った生徒たちに対しての教育法。例えば英語をまだそんなに話せない移民の子供たちのために、学校によっては英語のクラスがある。彼らの先生は、生徒の出身国についての知識はもちろんのこと、世界の国々についての知識を駆使して、生徒たちをクラスへ引き入れようとする。方法はさまざま。地図を用いるだけでなく、異文化の垣根を越えて交流しやすい、食べ物・音楽・芸術・スポーツについての実習を積極的に取り入れている。生徒はいとも簡単に心を開いて溶け込むようになる。そこに国際交流を超えた、自分のバックグラウンドを伝え、相手のものを知るという事の大切さを見た。

 

また、カソリックスクールにおいてはフィリピン系の子供たちが一番のビジブルマイノリティで、その子供たちのもともとの国と移民について学ぶ地理の授業の一環として特別カリキュラムが開発・実用されていた。この授業を通して、学校内のインクルージョンをプロモートしようと目的づけられていたのがとても興味深かった。日本の国際理解教育に通ずるものがあるのではと感じた。

 

 

 

③本、教科書、教育本の大きな役割

 特に小学校低学年から、積極的に読み聞かせや本を用いての授業がたくさん見られた。ハイライトはOLA(Ontario Library Association)によるVoting day。子供たちの読書を習慣づけるためのイベントで、全ての公立学校にて投票が行われる。他の記事でも書いているので、あまり細かく触れないが、本を読むことによる良い影響は計り知れないなと、自分自身の英文読書経験も踏まえて思う。

公立の図書館では子供向けの読書ツアーのようなものも開かれるみたい。

 

 

学びたかったことを学んで、深められたか?成功か失敗か?

⇒自分の中では失敗。自分の出したかった成果・結果に結び付けられなかったから。地理教育でlesson plan 作りたかったんだけど、現場経験あまりできなくて作るのやめてしまった。多からず発見を元に、ネットで調べたり、持ってる知識量でごり押しすることもできたけど、なかなか実用的なものにできないとなるとあまり意義を見出せなかった。

 

 

なんで成果に結び付けられなかった?

コミュニティを広げて活動することがうまくいかなかった。

一旦自信を失った。

⇒3か月の活動の中で、信頼関係を最大限築けなかったり、逆に壊したり、一人前として振舞えなかったりして、一回完全に意気消沈した。

自分に勝てなかった。

⇒一流になりたかったら、プロフェッショナルになりたかったら、結局、自分を乗り越えていくという事。それができるかできないか。夢があるかないか。おれは一流の「日本を知る人」になりたい。

 

 

これから何学んでいく?

日本の国民性、そして文化。教育から日本好きを育てるために。

 

・「社会問題を引き起こす背景にある日本文化・国民性とその成り立ちを明らかにし、教育的アプローチを見出す」

・「教育的アプローチにおいて社会に対する当事者意識をプロモートする」

・「文化的側面から考察し、国際舞台で活躍する人たちを応援する熱狂を巻き起し、自国をさらに愛していけるようなアプローチを見出す」

現時点では、いろんなことに興味が散漫している状態で、一つに絞ることができてない。ただ、自分の中ではこれらの興味は一つの大きな根っこの部分でつながっている。「人はいかに国を好きになれるか。当事者意識を持てるか」。国の文化形成の分野から学んでアプローチできればなと考えています。

 

 

現在の自分なんか挫折でも何でもない。

もっと勉強したい。たくさん、効率よく、楽しく。

 

 

 

National anthem そしてカナダの国民性

オンタリオのすべての学校で毎朝始業の時間に、国歌であるO Canandaが流れる。

曲が流れ始めると、生徒たちは手を止め、静かにそれを聞く。

これが学校見学を始めたなかで初めて驚いた衝撃だった。

 

 

「国としてのまとまりを強くしている。国に対する愛国心が教育の現場で育まれている。」

 

結局、国の社会によって、教育現場は違う。

日本の教育現場で君が代を流し始めたらどうか。「お国のために」。戦争時代にやっていたことである。教育勅語については教育史のハイライトして、教員免許を取る人なら誰でも教わること。最初はこのイメージしか、「教育現場と国歌」について連想されなかった。

 

でもカナダは違う。

4000万人弱の国家の中で、20%以上の人が移民。2世3世の人もたくさんいる。カナダという国家として、まとまる、get unifiedするためには、カナダ色を教育現場から染み込ませる必要がある。

「カナダという国の国民であること」、その自覚を促すことがカナダ社会が求めていることであり、教育現場が求められていることである。そのプロモーションの一つが、毎朝国歌。

 

ちなみにプロモーションは様々な方向からアプローチされている。地理教育、歴史教育、歴史的建造物保全、自然遺産保全、それらはカナダ政府、各自治体がカナダとしてのアイデンティティを確立するために行っていることである。

 

なんのプロモーションもしなかったら、当然インクルーシブな社会を作ることは達成できない。

 

 

「まず、国民のカナダ愛が半端ない。」

 

カナダ人って何なのかと、カナダ人は問うているらしい。カナダ人としてのアイデンティティは何なのか、わからない人が多いらしい。歴史も浅く、国として成熟した文化を育んでおらず、カナダ人って何なのかと模索するらしい。(The Unfinished Canadianより)

 

Canada day はすごかった。2018年7月1日で建国151周年のカナダだけど、どの世代の人もみなカナダグッズを身に付けて歩き、祝い、街中は赤に染まっていた。そんなことは日本の建国記念日では起こらない。

 

国の歴史とか、国の誇りとか、愛国心とか、日本でも感じれたらなと思う。

 

俺は、それを感じることが、日本人が世界で活躍するときにも大切だと思うし、地理教育という分野から、どうその「国好き」を育めるかをいま模索している。

 

 

O Canada, the National anthem of Canada is played in every morning in every school. All the students stop doing no matter what it is and bow the song. That's the first thing I was surprised at since I started visiting around schools.

 

Why play the anthem? ?

To let the people get unified as one nation, to foster or promote the patriotism towards their nation.

School sites can be varied depending on the need of society.

To me, it would seem to be a promotion of patriotism which might encourage the nationalism, if we did the same style of education in Japan. Actually that is what we did in the past for real during the period of the wars, which we learn on the course to become a teacher as part of our history of education. Due to what we did in the past education, I tended to associate playing the national anthem in school with an enhancement of nationalism.

 

 

However, here is not Japan but Canada,

where approximately nearly 40 million people live including immigrants and refugee for 20% of its total as well as the second and third generation of those. Since such a multicultural nation that has various ethnic people and communities on its land, I figure that "impregnating" what is a Canadian, How is a Canadian like, should be required in school in order to get them to understand the importance of inclusiveness and to get them unified altogether as one nation.

What the Canadian society needs is to make the people aware that each of them is one of the Canadians, meaning that to have the people have the sence of being a citizen living in Canada, which is therefore what the school sites are needed to do. The playing the O Canada can be part of this educational approach as the promotion of "impregnating the color of Canadian.

 

 

Meantime, these kinds of promotion are provided in various ways such as not only education of geography and history, but also preservation of historical places and natural heritages by some accountable organizations as well as the federal government in order to identify what is the Canadian, who is the Canadian for the people.

 

Unless those kinds of promotion, the inclusive society is never built up otherwise.

 

 

歴史と現在

世界を作ってきた民族・歴史を古く長く持つ国、第2波・3波で出来上がってきた国、実際に訪れて感じる違いがある。

 

その国の人々

 

文化

 

交通機関

 

建造物

 

産業

 

すべてが違う。教育はどうだろうか。

日本語と英語

小学生のSpelling Practiceや会話を聞いていると、言葉を耳で聞いて理解しているのだなとわかる。だから、小学3年生は正確なSpellingが自分よりもできない。自分は英語の言葉を耳で聞くではなく、文字や文章構造を見て、目で視覚的に理解している。会話の時でさえ、頭のなかに文章が出てくる感覚がある。たぶんそれは、英語を「覚えよう」としているから。つまり経験と記憶を繰り返して慣れようとしているということ。

 

これが悪いこととは思わないが、物事の理解力や説明力が比較的苦手なひとほど、文字を「覚えよう」としがちなのではないかと思う。

 

ここから先の仮説はいろいろ浮かぶのだが、脳科学とか幼少期からの読書の大事さの話になってくるので、今は突っ込まない。

 

しかしすごい思う。子供の言語教育は大事だ。脳の構造とリンクしている。

英語環境で育つ子供は、耳から言葉を聞いて「会話っぽい言語」として英語を習得していく。

 

日本語環境で育つ子供は、より目で文字を見て「文字っぽい言語」として日本語を習得するのかもしれない。

 

どちらもコミュニケーションツールとしての「言語」という意味で用いている。

 

漢字って音読みと訓読みがある。

訓読みのほうが初めて聞く単語でも意味を理解しやすいのは、発せられる音が意味を持っているから。

熟語に使われる音読みは、単体で発せられる音を聞くだけでは、その意味を理解できない。視覚的に、その漢字の読み方を文字にして「覚える」ところから始めるしかない。

 

日本語を0から習得した外国のひとたちは、「記憶力」が優れているのかもしれない。

そしてこの先、漫才などの日本のお笑いの文化と話が絡まる。なぜ言語能力の高い人の話を、面白いと感じるのか。なぜ面白い人の話は面白いのか。言語を「覚えよう」と、経験と記憶を繰り返しているだけでは決して辿り着けない領域の、言語表現力の賜物だと思う。もう一段階上級の言語文化を日本は育んでいる。

 

 

何よりも、もっと自分の耳を信じて英会話もできたら、もっと楽しいのかもしれない。

外人という言葉

日本人は外人という言葉を使う。

 

日本人じゃない人のことを外人と呼ぶ。

 

日本人という概念の認識は、黄色人種で、日本語をしゃべる、日本文化を理解しているひと。

 

違う肌の色だったり、しゃべる日本語に少し違和感があったり、日本的な同調性を重んじていなかったりするひとは外人扱いだ。

 

もちろん日本人は島国で長い間暮らしてきた民族であり、育まれてきた文化は独特である。島国の外から来るひとは、外人なんだ。

 

今日のグローバル化や多様性を考えたときに、日本人はすごい排他的な文化の一面を、外人という言葉から無意識的に育んではいないか。